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どこまでが仕事? [仕事]

先日、やくみつるさんの本を読みました。
雑学に関する新書です。やくみつるさんのご活躍は
これまで風刺漫画で拝見したことがあるのですが、
最近の傑作は森友・加計問題の一作。朝日新聞に
掲載されていました。ネットにも画像検索で調べれば
出ていると思います。

さて、やくみつるさんは日ごろから雑学に関心があり、
ありとあらゆるものに好奇心を抱きながら
日々を送られているそうです。私は普段あまり
テレビを見ないのですが、クイズ番組などでは
ずいぶん好成績をたたき出しているとか。
うーん、ぜひとも通訳業界にほしい逸材です。

私自身も毎日の生活の中で、たくさんのことに
好奇心を抱きながら暮らしたいと考えます。
目に入るものすべてが学びの対象だと思っているのですね。
勉強は何も机でカリカリやるだけではありません。
見聞すること体験することすべてが
自分の学びにつながるのです。

そう考えていますので、私の場合、どこまでが仕事で
あってどこからがオフなのかという明確な区分は
ないまま毎日を過ごしています。知り合いのコンサルタントは
クライアントとの電話も10分刻みで料金発生の対象と
なると語っていたことがあります。けれども私の場合、
今、学んだことがそれこそ何年も後になって
通訳現場で役立ったということはありうるのですね。
よって、ワーク・ライフ・バランスというように
仕事とオフを厳密に分けることができません。

仕事三昧で疲弊してしまっては元も子もありません。
けれども、日常生活の中でも「いつか仕事で役立つかも!」
という思いを抱きながら学び続けられるのは、
本当にありがたいことだと思っています。

考えすぎると行動できない [日々の暮らし]

毎日の生活の中では自分が得意なこともあれば、
苦手なこともありますよね。家事ひとつをとってみても
たくさん種類があり、私自身、得手不得手ははっきりと
わかれています。

たとえば私の場合、掃除機掛けや片づけ(モノを捨てること)
などは大好きなのですが、窓ふきやレンジフードの
掃除は限りなくニガテです。以前、お世話になった
美容師さんは「レンジフード掃除?大好きですよ。
年末になると燃えますねえ。ぜーんぶ分解して
徹底的に掃除します」と楽しそうに語って
いましたが、私はその正反対です。

ただ、私はこのレンジフード会話を機に
「その作業が好きでたまらない人」の話を聞くのは
大切だと思うようになりました。と言いますのも、
先のレンジフードの場合、美容師さんは「なぜ好きなのか」
「その作業をするとどういう良い気分になれるか」を
教えて下さったのですね。なるほどなあと思わせるものが
あり、大いに感化されたのでした。

もっとも私の場合、だからと言って即得意に大転換、
となったわけではありません。それでも、
その苦手作業をせねばならないときなど、先の
美容師さんを思い出しては自分を励ませるように
なりました。

ふだんの行動において「敬遠したくなること」というのは、
往々にして自分自身が考えすぎてますます嫌になるからだと
私は考えます。「やりたくないあな」「面倒だな」と
思えば思うほど、行動をしづらくなります。
そしてそれに取り組まなくても良い言い訳を
頭の中で列挙してしまいます。そしてさらに
体が動かなくなってしまうのですね。

指導をしていて伸びる生徒は、「あまりゴチャゴチャ
考えず、とりあえず行動する人」です。
たとえば、通訳力向上のために英文法力は
欠かせないのですが、ニガテだからこそとにかく
何でも良いからまずは取り組むタイプの人は
指導学期中の後半に大いに飛躍します。

その一方で「先生~、文法ニガテなんです。
どうしたらよいですか?」と聞き続けて、
結局はアドバイスもやらずじまいになってしまうタイプは
どうしても伸びを見せることができないのですね。

要は、人間というのは深く考えれば考えすぎるほど、
体が固くなって(頭も?)動けなくなってしまうのでしょう。

私自身、あれこれ悩みすぎて行動力を狭めないよう
気を付けたいと思っています。

自分がけなされたわけではなくても [日々の暮らし]

随分前にとあるお客様の通訳をした際、
印象的に思ったことがありました。

欧米の方へのそれまでの私の印象とは、
「単刀直入にモノを言う人」というものでした。
イエスはイエス、ノーはノーをはっきり伝えるものだと
思っていたのです。

けれども、その方は違いました。

相手の言うことをまずは受け止め、同意し、
「確かにおっしゃる通りですよね」
「同感です」と伝えた後、「ただ、私の意見を
述べるならば」ということを英語で丁寧に伝え、
そのあとに自分の主張を展開していったのでした。

その時思ったこと。それは英語であれ日本語であれ、
コミュニケーションを大切に思う人の
心構えというのは、国や言語、文化圏を超えて共通するものが
存在する、というものでした。

世の中には、悪気はなくても「いや」「でも」
「それは違うと思う」という具合に、相手の話が終わるや
否定形で入る人がいます。ことばを使う仕事に携わる私は
色々なコミュニケーション関連の本もこれまで読んで
きたのですが、そうした本には
「残念なケース」がいろいろと紹介されています。
中でも印象的だったのは、以下のケースでした。

AさんとBさんが話をしていました。Aさんには
尊敬するCさんという人がいます。Cさんから
とても良い話を聞いたAさんは、せっかくだからと
Bさんにそのエピソードを伝えたのだそうです。

ところがそれを聞いたBさん、聞き終わるや
Cさんのセリフを冒頭から否定したのです。

AさんにとってCさんは尊敬すべき人物です。
それを頭ごなしにネガティブに言われてAさんは
傷つきました。Aさん自身が否定された
わけではありません。「尊敬するCさん」を
悪く言われてしまい、自分自身もけなされたように
思えてしまったのですね。

なるほどなあと思いました。

私たちは、特に悪気もなく日常生活で会話をしていますが、
上記のように知らず知らず相手を傷つけていることがあるかも
しれません。こうしたケーススタディを読むたびに、
自分自身を省みて、直せるところはないか、
改めて考えていきたいと思います。

コラム更新のお知らせ [各種連載]

「通訳者のひよこたちへ」第316回は『せめて伝わる口調で』
というタイトルです。書籍紹介では、「日野原重明 一〇〇歳」
(日野原重明、NHK取材班著、NHK出版、2011年)を取り上げています。

http://www.hicareer.jp/inter/hiyoko/316.html

「放送通訳者直伝!すぐ使える英語表現」
第159回はcome out of the woodworkというフレーズを
ご紹介しています。

http://www.hicareer.jp/english/housou/159.html

お時間がありましたらご一読いただければ幸いです。

苦手なことをひとつだけ [日々の暮らし]

今年も大学の春学期授業が無事終了しました。
今学期は私にとって初の試みとなることをしてみました。
「毎週一冊新書を読んでくる」という課題です。
読むだけではありません。その読後感を実際に持参した本と
共にグループ内で発表するということをしてもらいました。
学生たちは実によく読んできてくれましたね。
様々な新書が学期中には話題となり、私自身、
大きな刺激を受けました。来学期も続けるつもりです。

さて、日々を充実させるうえで私にとって読書は
欠かせないことなのですが、もう一つ最近
意識していることがあります。

それは「苦手なことをひとつだけで良いから
一日一回は取り組む」ということです。

幸い大好きな仕事をする機会に恵まれ、
ささやかながら食や住の面でもありがたい境遇に
います。私にとっての毎日は好奇心と共にあり、
「知らないことを知る喜び」「調べることも仕事のうち」
という環境であることを考えると、本当に
幸せなのだと思います。

だからこそ、一日最低一回は、「自分が苦手なこと」を
するべきだと考えます。「苦手なこと」を
「面倒なこと」と置き換えても良いでしょう。

「あ、床にゴミが落ちている」と思ったとき、
「ま、いっか、そのままで。週末に掃除するし」ととらえるか。
それとも「よし、今、かがんできちんと拾って
捨てよう」と思って行動するか。

これは一瞬の判断なのですよね。

「ま、いっか」と思うのは簡単です。
けれども、その床を見るたびに「さっき拾わなかった自分」を
私の場合、まざまざと思い出します。
しかも「ま、いっか」の誘惑は依然として強く、
そのまま見てみぬふりをし続けてしまいます。

一方、ほんのひと手間をかけて拾って捨てるだけで、
ものすごく大きな達成感を抱くことができます。
「ま、いっか」の度合いが強ければ強いほど、
わざわざ成し遂げた自分を褒めたくなります。

ゆえに一日一回、苦手なことをしたいと考えます。
物事の大小は問いません。

とにかく「普段であればニガテ」と思うことを
一つだけで良いから取り組む。
たったそれだけで、一日わずか数ミリではありますが
前進できるように思えるのです。

この時期になると思うこと [日々の暮らし]

毎晩床に就くとき、必ず心の中で思うことがあります。
それは「今日も一日、無事に終えることができた」
という思いです。「家族も全員帰宅してくれた。
今晩も平安な気持ちで眠りにつける」ということへの感謝です。

いつごろからこう思うようになったのかは
定かではありません。ただ、放送通訳の仕事に
携わるようになってから、この思いが
強くなってきたように感じます。

放送通訳現場でニュースとして話題になるのは、
たいていは悲惨な出来事です。戦争、飢餓、自然災害、犯罪などが
ほとんどです。「明るい話題が大半を占めるニュース」
というのは、まず無いのですね。

同じ21世紀に生きているのに、なぜ私は空調の効いた
同通ブースでこの画面を訳せているのだろう。
テレビカメラが撮影した向こう側にいるのは、
大きな悲しみの最中にいる人ばかりなのに。

いつもこのような思いに駆られます。
平和な社会に生まれたということは、
自分の運が相当良かったとしか思えません。
地球上には何十億という人が暮らしていますので、
その中で恵まれた境遇にいるという確率は、
宝くじに当たるよりも少ないと感じます。

だからこそ、自分に与えられた使命は何かを
いつも考えます。大それたことができるとは思いません。
けれども、ささやかながら、身の回りから
ほんの小さなことでも良いから、取り組みたい。

毎年この時期になると、特にこの思いが強くなります。
間もなく8月。今年も終戦の季節がやってきます。

ピンチ [英語]

先日のこと。早朝シフトを終えて帰りの電車に乗っていた際、
ちょっとした「嬉しいこと」に遭遇しました。
いえ、大したことではありません。単純に私が
喜んでいるだけなのですが。

その日私はターミナル駅に到着した電車へ乗り込み、
空いている席に座りました。その直後、持っていたPETボトルの
ミネラルウォーターを飲み始めたのです。
するとちょうど同じタイミングで向かい側の席の方も
私のとまったく同じものを同じタイミングで
飲んでいたのですね。ミネラルウォーターと言えども、
最近は色々な種類のものが売られています。
数ある中から同じものを同じ瞬間に飲んでいた、
という偶然が何となく面白く嬉しかったのでした。

偶然と言えば、中学生の頃、ラジオのスイッチを入れたら
ちょうどその直前まで口ずさんでいた曲が流れていた
ということが何度かありました。別に霊感が強いわけでは
ないと思うのですが、そうしたことがその後も何度かあり、
こうした偶然を興味深く感じます。信じがたいかも
しれませんが、「そういえばあの友達、どうしているかな」
と考えていたらばったり会ったこともあります
(確率としてはもちろん少ないのですが)。

ところで日本語の「チャンス」は英語でchanceあるいは
opportunityと言います。ニュアンスとしては、chanceの
方がopportunityより偶然性が強くなります。
なお、日本語に「ピンチはチャンス」ということばが
ありますが、「ピンチ」は英語のニュアンスとしては
crunchが近いように感じます。pinch自体にも「試練、難儀」
などの意味がありますが、どちらかと言うと
略式表現のようです。

なんか [日々の暮らし]

最近コミュニケーション面で思うのは、日本において
全般的に「なんか」ということばがたくさん使われていることです。
文頭に「なんか」を付けたり、あるいは文章の途中でも
「なんか」を挿入したりという具合です。
「えっと~」「あのー」「その」ということば以上に、
最近は「なんか」が多用されているように感じます。

いつごろからこの現象になったのかはわからないのですが、
私自身、そういえば「なんか」をよく使っていると
思います。無意識である分、今後は少し気を付けたいと
反省しているところです。

先日イギリスの文芸誌The Spectatorを読んでいた際、
とあるコラムニストが「最近のイギリスではlikelyが
多用されている」と書いていました。これもある種の
「なんか」に近いのかもしれませんね。

ちなみに海外に暮らしていたころ、"you know"を
濫用するのは良くないと言われたことがありましたっけ。
「なんか」にせよlikelyにせよ、無意識に口をついて
しまうのであれば、なるべく控えるべく、落ち着いて
話すことが求められるのでしょうね。

言い訳を作らない [日々の暮らし]

以前、何かの小説だったでしょうか、以下のようなくだりを
読んだことがあります。母親と娘の会話でした。

その母親は年老いてきており、自分の老後を目の当たりにして
複雑な思いを抱きつつ日々を送っているという設定でした。
一方の娘は働き盛り。仕事に家庭に趣味にとアクティブに動く
様子がその文章からは描かれています。
そのような娘に対して母親は羨ましいという思いを
抱いていました。そして一言、「いいわよね、あなたは
まだ若いから」と言ったのです。

詳しい内容は忘れてしまったのですが、
要は「自分はもう老いてしまった。それに引き替え
あなたが羨ましい」という思いがにじみ出ていたのです。
実親として娘を応援すると同時に、ねたみとまでは
言わないものの、同性としての複雑な思いがそこには
描写されていたのでした。

私は20代前半の時、親しかった友人を亡くしたことを機に
人生観が変わりました。人がこうして生きていられるのは
偶然のたまものであり、当たり前と胡坐をかいてはいけない。
年齢的に考えれば年配者から順番にあの世へ逝くとは言え、
必ずしも絶対的ではない、という思いを常に抱いています。

だからこそ、物事や人に対して「うらやましい」「いいなあ」
という思いを抱くのをなるべく控えたいと考えます。
なぜなら、「うらやましい」というとらえ方は、
ややもすると「自分が取り組まなかったことの表れ」だと
思えるからです。

私が通うスポーツクラブには、ご年配のメンバーさんが
たくさんいらしています。ご自分なりのペースで
マシントレーニングをしたりスタジオレッスンに参加したりと、
健康づくりに励んでいます。そのような姿に接するたびに、
そうしたメンバーさんよりも年下である私が
よりによって言い訳などしてはいけないと思うのです。

言い訳を言うのは実に簡単です。言わないことの方が
ものすごく努力を要します。大変です。

でも、昨日よりも今日、今日よりも明日、一ミリでも良いから
進歩したいと思います。

形容詞+行動 [日々の暮らし]

声を使う仕事柄、のどは大事にしたいと考えます。
この時期、私にとっての大敵はエアコンの風。
私としてはエアコンをなるべく使わずに就寝したいのですが、
体感温度は人によりけりですので、
家族と暮らしていればそうともいきません。
設定温度を少し高めにして夜通しオン状態にしています。

以前読んだ本に「イギリス人と話すときは
お天気の話を振ると盛り上がる」と書いてありました。
日本も天候はよく話題になりますよね。
手紙の冒頭に書かれる時候の挨拶も、
季節にちなんだものです。

「暑い・寒い」というのは温度そのものが私たちに
そう感じさせますので、自分一人のちからでどうすることもできません。
会話のアイスブレーカーとして暑さ寒さを口にする分には
構わないのですが、気を付けなければいけないのは、
そうした季節の話題からボヤキになってしまうことです。

毎日暑くて嫌になっちゃう。
どーしてこんなに寒いの?

という具合に、「形容詞+ボヤキ」になりがちなのです。

会話の潤滑油としてぼやくには構わないのでしょうけれども、
自分でぼやくばかりで改善に向けた行動をとらなければ
状況は全く変わりません。「暑い~、んもう!」と
独り言を口にしたところで、それを耳にするのも
自分だけ。これでは余計不快になってしまいます。

大事なのは「形容詞+行動」なのですよね。
たとえば帰宅時にあまりにも暑いなら、ササッと
シャワーを浴びるとか、エアコン温度を下げるとか、
水を飲むなどして、改善に向けた行動をとることが
状況を好転させることになります。

「形容詞+ぼやき」ではなく「形容詞+行動」を
意識したいと思います。
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